Archive for September of 2011
◆訊き上手
2011-09-30
何を使えばうまくいくか。
多くの人は、その手段が何かを探っている。
「これを使えばうまくいった」を聞くと、
自分も、それを使えばうまく行くのでないかと思う。
これは、大きな勘違いだ。
大切なことは、「何を使うか」ではなく、
「どう使うか」の方が重要なことが多い。
「どう使うか」ということが判れば、その意図が判る。
意図が判れば、それを行うための手段が選べる。
ある程度の知識があれば、「何を使うべきか」はわかる。
この時点で、「何を使うか」を訊く意味はなくなる。
しかし、情報としては、「何を」という情報の方がわかり易い。
だから、そうした情報を追い求めてしまうのも理解できる。
どうせ、訊くならば、もう一歩踏み出してみればいい。
「なぜ、そうれなのか」
「それを、どう使うのか」
これなくして、「何を」だけで取り組んでも、
同じ結果が出せる確率は、かなり低くなると見ていい。
もちろん、自分で探すのもいい。
しかし、断然、教えてもらう方が早い。
あとは、訊き方。
「何を(WHAT)」ではなく、「どのように(HOW)」にフォーカスする。
この訊き方は、聞く側にもスキルがいる。
なぜなら、話し手は、相手のレベルに合わせようとするから。
そのレベル感を上手く伝えれば、的を得た応えが得られる。
そこで、面倒と思われてしまえば、茶を濁される。
聞き上手の基本は、訊き上手。
わかり易い情報だけに、振り回されてはいけない。
それでは!
08:48:00 -
Mikamos -
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◆完全な統率
2011-09-28
人間の身体というものは、
それぞれのパーツが単独でなりたっているのではない。
肺や心臓やリンパなど、それぞれが関連しあって、
ある意味では、完全に「統率」された状態にある。
その「統率」を乱すものがあれば、
それを、首尾よく排除しようと試みる。
そして、その負荷が高まりすぎて、
処理しきれなくなってくると症状として現れる。
病気などの症状とは、こうした「統率」の悲鳴だ。
たとえば、ストレッチを考えてみる。
これが、ダイエットに効果があるだろうか。
答えは、「ある」だ。
ストレッチでカロリーを消費する?
筋肉が増える?
そうではない。
筋を伸ばして、深呼吸を伴うストレッチは、
リンパの流れを良くしてくれる。
リンパというのは、体内の流れる、
掃除屋的な役割も担っている。
リンパの流れをよくすれば、
老廃物は、体外に排出されやすくなる。
つまり、余計な脂肪や毒が、体外に排出される。
そして、これに伴って新たな「毒」を取らなければ、
身体は、デトックスされていく。
だから、ストレッチはダイエットに効く。
しかし、それ単体で行うのではなく相乗効果を狙う。
身体は、こうして関連性を持っているから、
身体にいいことを一度に行っていく。
自然の世界も、同じような「統率」を持っている。
何かが動けば、何かが変わる。
香港で蝶が羽ばたけば、ニューヨークで台風が起きる。
こうしたカオス(混沌)的な事象は、
自然界や体内では、当たり前に起きること。
これは、「カオスを予測しろ」ということではない。
「カオスを前提に考えろ」ということだ。
何がどう影響するか判らない。
それを前提に行動すれば、
視野が広がるし、驚くことも少なくなる。
「完全な統率」
その影にあるカオス。
枝葉末節な事象に振り回されなくていい。
結果として、全体の流れとして、
良い方向に進んで行けばいいのだ。
それでは!
08:45:00 -
Mikamos -
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◆体幹
2011-09-26
身体の筋肉の80%は、太腿と腹筋で占められる。
これは、何を意味しているか。
筋肉には、基礎代謝という、
維持するためのエネルギーがいる。
つまり、これらの筋肉を鍛えれば、
80%の基礎代謝を高めることができる。
身体の軸となる腹筋などは、
体幹といわれ、ぶれない軸を作る。
体幹を鍛えていくと心なしか、
歩く感じも変わってくる。
どこか、しっかりとしてくるのだ。
そういった意味でも、家で言えば基礎。
人格でいえば、信念のようなものだろう。
腹筋を鍛えることは、様々な面の基礎となる。
だから、トレーニング器具も体幹器具が多い。
ダイエットをしたいならば、
その成功法則は、極めて簡単だ。
「摂るより、多く使えばいい」
本当に、これ以上でもこれ以下でもない。
より少なく獲る為、より多く使うための方法が、
様々な方法として紹介されているに過ぎない。
より多く使うには、筋肉量を増やして、
基礎代謝を高めることと有酸素運動。
少なく取るのは、炭水化物やお酒を減らして、
果物や野菜を多めに摂る様にする。
これが、難しいという話だろうが、
これ以外には、方法がないことも事実。
健康を害すれば、どんな成功も満喫できない。
病院のベッドでは、やりたいことはできない。
健康に投資することは、最大の投資だという。
まずは、体幹。
そして、足取りを実感してみよう。
それでは!
08:41:00 -
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◆理解のスタンス
2011-09-23
相手に期待する行動を起こしてもらう。
コミュニケーションとは、そういうことだ。
だから、必ずしも期待する行動を指し示す、
指示やお願いをするばかりではない。
相手に走らせたいならば「走れ」というよりも、
「走ってはいけない」といった方がよい場合もある。
人間の心理の話ばかりではない。
こうしたコミュニケーションに欠かせないもの。
それは、相手の立場を理解すること。
たとえば、自社のサービスのよいところを主張するよりも、
相手が期待していること以上に応えることが重要。
この当たり前のことは、言葉では理解できるが、
実際の行動となると伴わない場合が少なくない。
「走るな」といって、走らせるにも、
相手を本当に理解していなければできないこと。
コミュニケーションの基本は、
自分の主張をすることにあるのではない。
相手を「理解」するということ。
このことも、また誤解されやすいこと。
それは、自分の価値観で相手を考えることではない。
自分の価値観で相手の立場に立っても、
それは、相手を理解したことにはならない。
それは、相手を知ろうとする心構えによる。
コミュニケーションを良くするのは、自分のため。
しかし、それは相手を理解しなければ始まらない。
主張のスタンスを理解のスタンスに変える。
うまくいかないときは、この基本に立ち返る。
「サカナを釣るには、サカナの気持ちになれ」
遊びの中にも、その基本は表現される。
コミュンケーションは、すべての基本だ。
それでは!
08:00:00 -
Mikamos -
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◆楽
2011-09-21
「楽」というのは、何もしないことではない。
「楽しい」と表現されるように、
楽しさ故に苦しさや辛さを感じないということ。
つまり、「楽」なのだ。
だから、「楽」という定義は、人それぞれで異なる。
他人からみれば、とても辛そうな状況も、
本人にしてみれば、「楽」ということはある。
それは、辛さを紛らわすための楽しさではない。
その先にあるものや期待に胸を躍らせる。
他人の役にたつことや感謝されること。
自分自身の価値を表現すること。
人は、こうしたことに楽しさを感じる。
多忙にも、枝葉末節なことに追われる多忙と、
自分を表現するが故の多忙がある。
同じくらいの睡眠時間であったとしても、
自分を表現する故の多忙は、「楽」だ。
何もしなくてもいいことを「楽」と認識しているなら、
それは、とても大きな損をしていることになる。
そして、そうした間違った「楽」を求めているなら、
その過程の時間や労力は徒労に終わりかねない。
どうすれば、自分は「楽」になれるのか。
それを、選択するのは、いつも自分自身だ。
今よりも、「楽」になりたいと思っているなら、
その定義を見つめなおしてから考えたい。
そうすれば、選択の質は変わる。
気付けば、活力溢れる状態になって、
結果として、「楽」な自分がそこにいるだろう。
そうした自分は、他人からみても、
決して、「楽」には見えないかもしれない。
しかし、それでいいのだ。
楽になって、自分のステージを上げよう。
それでは!
08:56:00 -
Mikamos -
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◆枠の中
2011-09-19
誰も、自分が空を飛べないことを、
問題としないし、悩んだりしない。
これは、何を意味しているか。
これは、「自分が望む結果を得るために、
必要な力は、すでに持っている」ということを示している。
逆の言い方をすれば、
実現できないものはイメージすらできない。
さらに飛躍すれば、
想像を逸する範囲の問題は問題とならない。
この両側面から見ても、
やはり、イメージ出来ることは実現できるといえる。
当然のことながら、イメージするだけで、
次の日に目覚めたら実現しているということはない。
イメージの世界では、何をするにも時間は不用だが、
物理的な世界では、時間的な経過が必要だ。
そして、物事を物理的に変化させていってこそ、
欲しい現実が実現していく。
だから、行動しなければならない。
それは、変化を起こす行動だ。
一見、関連性のないようなことでも、
突き動かされるような感情を感じたら行動。
これは、どんな成功哲学にも、
書き記されている黄金律のひとつだ。
自分の範疇にない問題は起きない。
すべては自分の中に答がある。
こうした自分自身への統一的な信頼が、
迷いや不安をなくしてくれる。
「本当にできるのだろうか・・・」
心のどこかで疑問を感じてはいけない。
ここは、バカになって自分を信じてみる。
今、10億の借金を抱えることはできるか?
命を狙われるような状況にさらされることは起こりえるか?
出来ないことは問題にもならない。
所詮は、すべて自分の枠の中の出来事。
出来ないことは思いつきすらしないのだから。
それでは!
08:50:00 -
Mikamos -
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◆小さな基準
2011-09-16
自分の基準というのを、自分自身に対して持っている。
睡眠時間の基準、満腹の基準、運動の基準、などなど。
これくらい寝なければしんどい。
満腹になるには、これくらい食べる必要がある。
こうした基準に当てはめて行動している。
たとえば、ダイエットを考えたとき、
一番最初に問題になるのは、この基準だ。
本当は、おにぎりひとつで満腹感は得られるのに、
物足りなさを感じて、余計に買ってしまう。
30分のウォーキングは、出来るけど、1時間だとしんどい。
運動は朝するものだから、朝出来なければ、その日は出来ない。
こうした基準の数々が、ダイエットを阻む。
しかし、実際には、こんな基準は不要だ。
その確認のために、こうしたルールを試しに破ってみるといい。
意外に、すんなりと受け入れられるはずだ。
「これでもいいんだ」
そう実感できれば、その基準はなくなる。
それが、新しい習慣の第一歩だ。
多くの人は、無意識のうちに、こうした基準にそって、
物事を選択していることに気付いていない。
つまり、自分のことは、よくわかっていない。
自分の持つ基準を塗り替えるときは必要だ。
そのためには、自分の基準を破ることが原則。
それが、基準でもルールでもなんでもなかったことを知る。
その新しい価値観の形成が、
新しい未来を作っていくのだと思う。
大きな自己変革など、必要ない。
こうした小さな取り組みこそが、
大きく自分を変えていき、理想に近づけるのだろう。
それでは!
07:40:00 -
Mikamos -
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◆悪習
2011-09-14
クセや習慣というのは、やっかいだ。
なぜなら、日常生活で繰り返す習慣は、
それが改めるべきものだという認識が持てない。
それでも、まだ認識できる悪習慣はある。
タバコ、酒、食べすぎ、運動不足、ゲーム・・・。
こうしたものは、心のどこかで辞めなければと、
感じられるものかもしれない。
こうした悪習を断つには、
あとは、やる気になるかどうかに尽きる。
問題なのは、認識できない悪習。
たとえば、目先の物事に囚われること。
本来の自分や目的を見失い、
目先の問題をとりあえず解決しようとすること。
いわゆる、原因を取り除くのではなく、
症状を押さえ込もうとする対処療法に奔走する。
この習慣の典型的な症状は、
苦労はするが目的は達成できないというジレンマ。
「船でハワイに向けて出発したつもりが、
目の前の障害物を避けていたらインドに着いていた」
そして、また船を出して、今度は南米・・・。
これでは、いつまでたってもハワイには辿り着けない。
中には、乗り越えなければならない障害物もある。
避け方を工夫しなければならないこともある。
その方法は、すべてハワイをむいた上で、
出てきたものでなければならない。
目の前の出来事に反応する悪習は、
その舵取りを狂わせる。
そして、それを改めるべきと気付くことは少ない。
改めるべきは、そうした「気付けない悪習」だ。
なぜなら、今の自分は、過去からの
自分の習慣の積み上げによって出来上がっているからだ。
今の自分に満足していないならば、
未来を変えたければ、今を変えなければならない。
もう一度、悪習撲滅に挑戦してみよう。
それでは!
08:29:00 -
Mikamos -
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◆新しい
2011-09-12
まったく新しいこと。
まだ、誰もやったことがないこと。
この表現は、魅力的だ。
しかし、まったく新しいものは、
ある日、突然現れることはない。
それは、往々にして、既存のものを組み合わせたり、
削ったりするなかで、生まれてくるもの。
電話なくして携帯電話はなかったし、
パソコンなくしてスマートフォンもなかった。
そうした背景の中でも、
面白いものが生まれてくるときは特徴がある。
物理的な組み合わせだけではなく、
コンセプトの変革が組み込まれたとき。
そのとき、それを手にして気付いた人は、
その意外性や新鮮さに興味を示す。
音楽は、座って聴くものだった。
それを持ち運んでもいいんじゃない?
ウォークマンは、音楽を持ち歩くという、
新しいコンセプトを提案し受け入れられた。
このコンセプトには、「まったく新しいもの」はない。
誰もが、普段から行っていることだから、
意外性や新鮮さが伴ってくる。
これが、誰も体験したことのないことならば、
何がいいのかすら伝わることはないだろう。
新しいものというのは、今あるものから生まれる。
古いものの先に新しいものがある。
だから、新しいものをつくりたいならば、
古いものを徹底的に大切にすることから始める。
そして、それにコンセプトという、
別の角度からの光を当ててみる。
そこに初めて、新しいものの影が、
おぼろげに見えてくるのではないか。
奇を衒うことは、余計なこと。
本当に新しいものに、奇など不要だ。
それでは!
08:35:00 -
Mikamos -
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◆良心
2011-09-09
社会通念や道徳、法律。
社会には、こうした”是”とすべきものがある。
しかし、道徳や法律は、常に正しいとはいえない。
それは、最大公約数的な観点で、
皆の合意のもとに作られたルール。
それは、最低限のルールの概念であって、
万人の幸せのために作られたものではない。
こうした社会通念以上に守るべきものがあるすれば、
それは、自分自身の持つ”良心”だろう。
良心は、誰に教えられるものでもない。
生まれたときから、誰しもが備え持っている。
どんな小さな子供でも、友達を泣かせれば心が痛む。
ゴミを道に投げ捨てれば、後ろめたさを感じる。
嘘をつくことは良くない。
これは、道徳的、社会通念的には正しい。
しかし、相手に配慮することでつく”嘘”もある。
そうした”嘘”は、決して悪ではない。
それが、嘘であるのか、配慮であるのか。
それは、本人の良心によるものでしかない。
社会的通念や法律に忠実なことが、
必ずしも、自分や周囲を幸せにすることではない。
ただし、自分の良心に従うには条件がある。
それは、「自分自身を信頼している」こと。
だから、それが正しいかどうかを
改めて他人に確かめる必要はない。
他人に確かめると、非難や批判をされる。
「信号は、赤で渡ってもいいですか?」
それには、一般的な意見は、NOだ。
しかし、見通しのよい道路で、
車がまったく見えない状況ならどうだろう。
果たして、どれほどの人が信号を待つだろうか。
それが、子供と一緒ならどうだろうか。
その「渡る」「渡らない」の判断は、
法律や社会通念に基づいているのではない。
それは、個人の良心に基づくものだ。
それが、信号がではなく仕事の場面ならどうだろう。
自分の良心に従うべき場面は意外に多い。
信頼に基づく良心は、常に正しい。
まずは、自分を信じてみることからはじめよう。
それでは!
08:28:00 -
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◆浪漫
2011-09-07
浪漫は、人を大きくする。
日常では、自分の生活の範囲のことで手一杯。
それ以上の夢を描く暇も無いかもしれない。
それでも、やはり浪漫を描きたい。
浪漫とは、空想的で冒険的で、
現状からは考えられないことだから面白い。
今、自分が目一杯手を伸ばせば、
届くところにあるものは、浪漫とはいえない。
そのはるか向こうにあって、
どうすればそれが実現できるか判らないもの。
それが、浪漫だ。
「どうすればいいのか見当もつかない」
これこそが、浪漫の源泉だ。
この源泉をやらない理由にしてはいけない。
それを楽しめることが浪漫を楽しむことになる。
そして、現実は、ドラマ以上にドラマチックだ。
現実には想像だにしなかった展開で、
物事が展開していく。
実際、ドラマにしてみれば、
ありえなさ過ぎてつまらなくなっていまう。
そういったことが現実には起きる。
その積み重ねが浪漫を実現していく。
だから、今その浪漫を描く根拠がなくてもいい。
今、どうすればいいのか方法が判らなくていい。
ただ、ホラ吹きのごとき大事を目指す。
浪漫とは、そういうものだろう。
浪漫は、人生を熱くする。
枝葉末節に溺れてしまう日常。
浪漫を描くことを忘れないようにしたい。
それでは!
08:25:00 -
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◆腑
2011-09-05
思い切って行動できるか。
これは、とても重要な視点だ。
しかし、何でもかんでも思い切りが必要なのではない。
むしろ、その選択を誤れば、
単なる、無謀な行動としかならない。
たとえ、無謀な行動であったとしても、
それで人生が終わるわけじゃない。
そこから、学ぶことも多いし、
それがあったからできることもあるだろう。
ただし、そういった「無謀な行動」が、
直接成果に結びつくことは少ない。
無謀な行動かどうか。
その判断の基準は、どこにあるか。
ひとつ、確実にいえることは、
その答えは、決して他人にはないということ。
その答えは、自分の中にしかない。
それも、心の奥底に確実にある。
ある行動を起こそうとするとき、
全力で、思い切れるかどうかの基準。
それは、「腑に落ちるかどうか」だといえる。
どこかで引っかかる。
何か腑に落ちない感覚がある。
この感覚は、正しい。
それでも、行動を起こすならば、
それなりの覚悟が必要だと思わなければならない。
逆に、腑に落ちた行動は、勢いがつく。
少々の課題や失敗などは問題にならない。
周囲の人は、なぜそこまでできるのかと、
その行動力やパワーを不思議がるかもしれない。
しかし、当の本人にしてみれば、
「そんなに頑張ってない」という感覚がある。
苦痛が苦痛でない状態。
腑に落ちた思い切った行動というのには、
そういった力があるといえる。
今、やろうとしていることは、腑に落ちているか。
他人に助言を求める前に、
まずは、自分の心に問いかけてみよう。
それでは!
これは、とても重要な視点だ。
しかし、何でもかんでも思い切りが必要なのではない。
むしろ、その選択を誤れば、
単なる、無謀な行動としかならない。
たとえ、無謀な行動であったとしても、
それで人生が終わるわけじゃない。
そこから、学ぶことも多いし、
それがあったからできることもあるだろう。
ただし、そういった「無謀な行動」が、
直接成果に結びつくことは少ない。
無謀な行動かどうか。
その判断の基準は、どこにあるか。
ひとつ、確実にいえることは、
その答えは、決して他人にはないということ。
その答えは、自分の中にしかない。
それも、心の奥底に確実にある。
ある行動を起こそうとするとき、
全力で、思い切れるかどうかの基準。
それは、「腑に落ちるかどうか」だといえる。
どこかで引っかかる。
何か腑に落ちない感覚がある。
この感覚は、正しい。
それでも、行動を起こすならば、
それなりの覚悟が必要だと思わなければならない。
逆に、腑に落ちた行動は、勢いがつく。
少々の課題や失敗などは問題にならない。
周囲の人は、なぜそこまでできるのかと、
その行動力やパワーを不思議がるかもしれない。
しかし、当の本人にしてみれば、
「そんなに頑張ってない」という感覚がある。
苦痛が苦痛でない状態。
腑に落ちた思い切った行動というのには、
そういった力があるといえる。
今、やろうとしていることは、腑に落ちているか。
他人に助言を求める前に、
まずは、自分の心に問いかけてみよう。
それでは!
08:21:00 -
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◆企画と編集
2011-09-02
どんな仕事や活動であれ、
まったくの新しいものを生み出すということはまれ。
これまであったものを組み合わせたり、
改善したりした結果として「新しい」ものになる。
その過程を一言で言えば、「企画と編集」。
人と違った成果を表したいなら、
この企画と編集のやり方次第だといえる。
まずは、企画。
それは、何をどう取り上げるか。
これまで存在したものや一般的なものも、
切り口や観点の違いでまったく違うものになる。
たとえば、ずいぶんと語られてきた成功哲学も、
主婦層に絞った企画にすれば色は変わる。
次に、編集。
それは、どう見せるかというやり方。
情報化社会では、情報は嫌というほどある。
手に入れようと思えばすぐに手に入れられる。
しかし、その情報が整理されていなければ、
その情報は、役立てることはできない。
情報は、整理されてこそ使える。
その整理の手法のひとつが編集。
様々な情報を企画にそって編集する。
見せ方一つで、伝わり方が変わる。
だから、編集の基本は、見る人側に立つこと。
見る人側に何を見て何を感じて欲しいか。
そのスタンスがない編集はつまらない。
自己満足だけの代物になる。
会社で作るプレゼンや報告資料も同じ。
この企画と編集の観点は、資料の行間にもでる。
意思あるものに、人は影響を受ける。
だから、何を伝えたいかが伝わるものになる。
情報化社会が進めば進むほど、
ますますこの企画と編集の能力は求められる。
この能力は、決して特別なものではない。
他人と会話をしている時点で、
その基本的な能力は備わっている。
あとは、伝えたいという思いと、
それを表現するための自分の観点を持つこと。
これからも、それを磨いていきたい。
それでは!
08:06:00 -
Mikamos -
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